今こそ読みたい、ボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』(1991)の要約と考察

 ジャン・ボードリヤール湾岸戦争は起こらなかった』、塚原史訳、紀伊國屋書店、1991年

 

【要約】

 

湾岸戦争にかんするタイム・テーブル

 

湾岸戦争は起こらなかった』は湾岸戦争の始まる前、最中、後に書かれた三つの論文を合わせたものである。

 

1990年8月1日 石油問題をめぐって、イラククウェートの交渉が決裂。

     2日 未明、イラククウェートに侵攻。全土を制圧。

     15日 イラク、難航していたイラン和平交渉で全面的な条件受け入れを発

        表。また、外国人の出国を禁止、戦略施設に分散拘束して「人質」化

   11月29日 国連安保理、明年一月一五日までにイラククウェートから撤退しな

        い場合、武力行使を容認するとの決議を可決。

1991年1月4日 湾岸戦争は起こらないだろう」を発表。

     17日  湾岸戦争開戦。アメリカを主力とする多国籍軍、バクダッドなどを 

         空爆

   2月13日 バクダッド爆撃で多数の民間人が死亡。

        湾岸戦争は起こっているのか?」を発表。

     24日 未明、地上戦に突入。

     26日 多国籍軍クウェート首都を解放。

     27日 ブッシュ、湾岸戦争勝利と停戦を宣言。

    3月29日 湾岸戦争は起こらなかった」を発表。

 

①   「湾岸戦争は起こらないだろう」

 

はじめから、この戦争が存在しないだろうということを、人びとは知っていた。熱い戦争(暴力による紛争)のあとから、冷たい戦争(恐怖の均衡)のあとから、やってくるのは死んだ戦争――解凍された冷戦――だ(十五頁、引用)。

 

 

・戦争の宙づり状態

 人質が兵士にとって代わった。人質は無力さゆえに情報として、紙幣のような交換可能性となり、その可能性が戦争を、実際の戦闘行為のない宙ずり状態にする。

 

・抑止力の論理

 

 

われわれをとりまいているのは、戦争の論理でも、平和の論理でもない。抑止力の論理だ。この論理は、四十年におよぶ冷戦のあいだに独自の成長をとげ、今後の出来事において、ついに大団円をむかえたのである――東欧でも、湾岸地方でも起こった、弱々しい出来事の論理(二十頁、引用)。

 

 

 戦争が抑止力によって、当事者同士が本当に出会うことのない漸近線的な状態が続くことになる。宣戦布告という儀礼の消滅や、勝者と敗者の区別の消滅によって戦争は終わることもなく、始まることもなくなる。

 

潜在的なものは現実的なものへ転化するのか?

 現代においては潜在的なものが現実的なものに勝利している。核という潜在的な力が現実に干渉し、現実を抑制しているように、生産された武器は使用されることに意味があるのではなく、潜在性に留まっていることで効力を発揮する。現代人は現実的な暴力より、TVの画面にうつされる暴力を好むように、潜在性が現実の行為に移ることを嫌う。戦争は情報として「試験管の反応」のように現実的なものなることなきシミュレーションとして潜在的なものに留まるだろう。

 

②   「湾岸戦争はほんとうに起こっているのか?」

 

入手可能な材料だけにもとづくなら(戦争の実像はほとんどなく、注釈ばかりが氾濫している)、われわれは宣伝のための巨大なテストに立ち会っているのではないか、とさえ考えられるほどだ(二十九頁、引用)。

 

 

・宣伝と投機と潜在性に彩られた戦争

 

 

宣伝と投機と潜在性に彩られた今度の戦争は、戦争とは他の手段によって追求される政治である、というクラウゼヴィッツの公式に、もはや対応していない。湾岸戦争はむしろ、他の手段によって追求される政治の不在に対応していると言えるだろう(三十二頁、引用)。

 

 

 宣伝とは経済の手段ではなく、目標なき結果である。それは文化全体の寄生生物のように、宣伝する内容に関係なく、伝わるという結果で世界中の文化を消費可能にするものである。同様に湾岸戦争も征服や支配という政治的目標を持つものでない。それは宣伝が宣伝という目標しか持っていないように、戦争の存在を実証するためだけのものであり、見世物のように戦争らしさを演出するだけの疑似体験である。

 

・勝ち負けのない戦争 

湾岸戦争とはサッカーにおけるPK戦のようなものである。サッカーは勝ち負け求めてお互い戦略を立て戦うものだが、引き分けになった後のPK戦は、今までの熱戦の価値が戦いそのものではなく、ただの結果のみの価値であると白けさせる。PK戦で決めてしまうなら、はじめから戦う必要がなかったと感じてしまうように、そこにあるのは勝敗の(競争の)価値ではなく、勝敗の価値そのものを白けさせる消化不良である。

 

けっきょく、戦争についての決定をくだせない状況は、他者性と原初の敵意と真の敵の消失にもとづいている。戦争は独身者の機械となったのだ(四十三頁、引用)。

 

 

 独身者機械とは批評家ミシェル・カルージュが美術作品や文学において精神分析学的方法において発見した、人間が機械に欲情するようなフェティッシュな側面に着目した概念である。

 

彼は文字どおり我を忘れ、娘の首を絞めると、屍体にのしかかったのだ。これは考えられる限り、もっとも機械的、独身者的「愛」である(ミシェル・カルージュ『≪新訳≫独身者機械』新島進訳、東洋書林、2014年、八十八頁)。

 

 独身者機械にとって異性は機械的装置であり、我が物にするという操作性から快楽を得るものである。彼らにとっての対象は抵抗もなく動かないものであり、目的は生殖ではなくオナニズムである。独身者機械と化した戦争は、二者間の闘争としておこるものではなく、自らのつくりだした抽象的な他者性とのみ戦う。

 アメリカ人たちは(独身者機械的)自己中心的メンタリティによって敵を理解不能で具体的な他者ではなく、抽象的な他者性としてつくりだしている。アメリカ人はインディアンを同情することで壊滅させたように、「お金はあった方がいい」「生活は豊かな方がいい」などの自らのフィルターを通じてのみ、他者という存在の表象を生み出して排除する。

 

・戦争の徴候化 

 現代において病気が徴候として読み取られるのと同様に、戦争も徴候となる。現代の病気はそれ自体として存在するのではなく、臓器の動きや皮膚の変化などが徴候として、その効果=結果を読み解かれることで初めてあらわれる。私たちが徴候としてみるのは「清潔な戦争」である。「ステルス」に行われる攻撃や敵を見ないまま行われる爆撃にあるのは記号と徴候のみの交換、応酬である。それは発信者と受信者がけっして出会うことのないコミュニケーションであり、決闘的な関係は欠落している。 

 

・リアルタイムの「退縮」

 リアルタイムの「退縮」とは、出来事が瞬間的なものへ退縮し、情報のなかで消滅する現象である。リアルタイムな情報は、その透明さゆえに現実に接近していると感じてしまう。しかし、それは現実が等身大のイメージとして無力化されることである。戦争という出来事が、戦争の情報によってイメージとしてのみ機能する時に、戦争は情報の中で消滅してしまう。

 

・本当に戦争は起こっているのか?

 戦争について賛成や反対について言っているものとは別の次元の愚かしさがある。それは、戦争の宣伝や徴候、リアルタイムな情報によって、もはや戦争が現実か幻想の区別が分からなくなってしまう愚かしさである。

 

③   「湾岸戦争は起こらなかった」

 

 

今度の戦争は、始まる前から終わっていたようなものなので、ほんとうに存在していたとしても、それがどんなかたちをとっていたか、けっしてわからないだろう(九十三頁、引用)。

 

 

・戦争の現実性

 

湾岸戦争の場合、問題なのは、戦争が現実に存在したという仮説以外の仮設を立てることを不可能にするかたくなな論理が、実物によって検証される、という思いこみだ。最終結果なるものの幻想を根拠とする、現実主義的論理である。――ところが、戦争のような複雑な方程式の最終解は、けっして戦争という明白な事実のなかにあるのではない(百五頁、引用)。

 

 

 サッカーとPK戦の関係ように、あたかも結果だけしか意味をなさないと信じてしまう幻想がある。それはサッカーを点数というスコアでのみ理解し、本当にそこに戦いがあったかを検証することなく信じることの愚かさである。

 

・犠牲者のいない戦争の兆し

 多国籍軍側の戦死者が今までの戦争において最小限となった(イラクは3万人前後、多 国籍軍は700人前後と言われている)。こうした犠牲者の少ない戦争は、やはり従来の戦争とは一線を画す。死者が見えなくなることは、なおさら戦争を漂白し、死者も記号となってくことの兆しである。

 

・合意にもとづく最初の戦争

 クラウゼヴィッツ「戦争でない戦争とは、他の手段によって追求される政治の不在のことである……」。湾岸戦争は支配への政治的意志や、生の衝動や、二者闘争的な暴力からではなく、抑止力による全面的な合意への意志によって起こった。それは対話や闘争ではない合法による電気処刑である。この戦争の実体は、正規軍どうしの対決というより、飼いならし、「管理不能な要素」の排除である

 

【考察】

 

○現実の戦争と幻想の戦争 ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」から

 

スタジオで演じられる事象は、これと似た現実の事象とは、大いに異なっている。その相違はちょうど、競技場での円盤の投擲が、誰かを殺そうとしての同じ場所での同じ距離へ向けての同じ円盤の投擲と、異なるにひとしい(多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』岩波現代文庫、二〇〇〇年、百六十頁、引用)。

 

 ここで問われていることは単に現実と幻想の区別ではない。なぜならスタジオの演技も、競技場の円盤投げも現実であるからだ。しかし、スタジオの演技は現実を模している訳ではなく、現実らしさという結果だけを求めている。それは円盤投げが、狩猟という手段によって得られた結果としての距離を、競技として求めているという事態と同じである。現実の事象には、殺すための円盤投げのような再現不可能性がある。しかし、競技としての円盤投げは距離が記録として再現可能なものとなる。

 ベンヤミンが複製技術時代において警鐘を鳴らすのは、幻想やコピーの氾濫ではない。危険なのは現実やオリジナルが、自らの現実性を獲得しようと倒錯に陥ることである。円盤投げを競技より、狩猟が素晴らしいと語ることは、複製技術に対して人間的な栄光を振りかざすことである。しかし人間と技術を分けることは、やはり的を射ていない批判である。ここで語るべきは既に倒錯した遠近法について語ることある。オリジナルとコピーの関係は技術において変化する。

 オリジナルの価値を復権させようとするのは、まさしく湾岸戦争が戦争らしさを求めるという倒錯である。だからこそボードリヤールは戦争がいかに変化したのか、湾岸戦争がいかに空虚なものだったかを告発しようとしているのではないだろうか。

 

○新兵器 距離とリアルタイム 

 湾岸戦争では従来の戦争にはなかった様々な新兵器が投入された。トマホーク巡航ミサイル、ステルス戦闘機、クラスター爆弾等々。

 重要な役割を果たしたのはGPS全地球測位システム)である。アメリカ軍が打ち上げたGPS衛星により地球のどこにいようと信号を送るだけで分かるようになった。このころはまだ精度は低かったものの、その衛星通信システムをいかしたAWACS早期警戒管制機)という大型レーダー搭載の航空機が実装されることとなり、大きな成果を挙げた。敵に知られることなく敵の場所を知るということは情報戦や電子戦において非常に有益であり、湾岸戦争においても、その距離や成果は目覚ましいものがあった。

もう一つ大きな話題となったのはイラク軍のスカッドミサイルを撃墜したパトリオットミサイルである。これは「目標物迎撃用追跡位相配置レーダー」ミサイルの略称であり、名前の通りレーダーによるミサイル探知と弾道の計算などが一体となったシステムのことである。また、無線や中継により運用中は無人になることが可能である。まさしくリアルタイムでの情報が鍵を握る兵器であり、ミサイルとミサイルの知能的攻防が人間のいない場所で行われることになる。

 人間が他の動物と大きく異なるのは、距離を置くことである。飛び道具を生み出した人類は自らの身体と離れた場所で自らの力を行使できるようになった。実際に投げることに関して人類の右に出る動物はいない。距離の拡大は抽象的な思考能力にも変化を与えたと言われている。それは「これがあそこへ」という離れた場所での報酬を計算することになるからだ。確かに農耕も延期的に、今を我慢して次を予測することで得られる報酬である。しかし距離が拡大すればするほど、制御の問題が出てくる。物体が自らの手から離れると自ずと計算しきれない部分が出てきて制御が難しくなる。しかし、リアルタイムの情報が途轍もない距離の制御を可能にした。無人の物体がリアルタイムの情報を人間に送ることと、そこからリアルタイムで人間が物体に指示を出すことで、戦場に人間が出る可能性はなくなる。

 

湾岸戦争は起こらなかった

湾岸戦争は起こらなかった

 

 

 

新訳 独身者機械

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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

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