レヴューの楽しみ方 「走馬灯」と「檸檬」


 現代はあらゆるものが許されているように思われる。あらゆる人間が発言権を持ち、「みんな違ってみんないい」という掛け声のもと、「相対的=善」という価値観を植え付けられ、自由を余儀なくされる。私たちは虐げられていないゆえに反動的な衝動を無化されている。自由が許された場、とりわけ趣味や作品、商品を語る場では誰もが評論家面をする。私たちは根拠なき断言を、Twitter で、YouTube で、Amazonで、見ることがある。一九七二年、筒井康隆の小説『俗物図鑑』で描写された、自称評論家の増殖が四十年以上の時を超えて現実となっている。実際に学生の会話なんて、ほとんどがアニメとか映画とかTV 番組とかお笑いとかの評論である。そうした場を見ていると、何か人間の縮図をみているようで面白い。喧嘩したり、なだめたり、徒党を組んでみたり、達観するやつがあらわれたりして、つくづく人間の「暇さ」を実感する。もちろんそれを読んで、ほくそ笑みながら妄想を膨らませる私が一番暇を持て余していることは言うまでもない。こうしたレヴュー時代に対して、攻撃することも擁護することも容易だろう。情報に踊らされているとか、アイデンティティがどうとか、あるいは人間は昔からそうだったとか、多様性がどうとか、私たちはレヴュー時代に対してもレヴューしたくてたまらないのだ。しかし、このどうしようもないレヴュー時代を乗り切るにはその渦の中で楽しむしかない。私はレヴューを眺める時に何を楽しんでいたのだろう。それは「走馬灯」と「檸檬」である。

 言葉とは空間である。同じ場所に二つの言葉は入らないので、そこには選別がある。「好き」には「嫌い」を排除する攻撃が隠され、たとえ匿名であろうと全ての言葉には「誰が」得をするのか、という政治的な力が貫いているのだ。レヴューという自由に隠されたエゴ、私たちはそれを垣間見る。しかし、それから先へは行けない。そんなものは記憶したり、熟慮したり、反論したりする前に流れゆき、漠然とした「短い歴史」だけになる。レヴューにはほとんど根拠がないように、その場に「深さ」は必要ない。それは幼児の快のように、「その都度」に発生と解消がある平面的な場なのである。しかし幼児だけでなく実際に私たちは大人になって、歴史や信念などの「深さ」を想像してはいるが、現実それ自体に根拠がないのと同様に、絶対的な価値など持っていた試しはない。私たちは恣意的な「短い歴史」の寄せ集めを生きているに過ぎない。「走馬灯」とは、そんなものだろう。そこでは「あんなこともあった」という断片が無数に流れていく。それは電車の中で街の灯をみるようなもので、一つ一つの灯に人生があることに圧倒されながら、その灯は歴史と呼ぶにはあまりにも短い回想で過ぎ去り、風景として再び地図的平面に回収されてしまう。

そんな平面によって構成されるレヴュー空間への、私なりの介入方法こそ梶井基次郎の「檸檬」である。「つまりはこの重さ」なのである。紡錘形の単純色を、ガチャガチャしたレヴューの中に仕掛けるのだ。私たちは好き勝手に意見するのだが、あたかも匿名的に語っているはずの浮遊する言葉の奥には、生々しいほどの人間性という、重さを持ったマテリアルな「檸檬」が存在している。その重さは私たちを自由過ぎる軽さから解放し、檸檬の爆発は「みんな違ってみんないい」という掛け声を、「こうでないとダメだ」という叫びへと変貌させる。私はレヴューに隠されたエゴの重さを見つけては、密かに楽しんで立ち去るのである。もちろん、そうした爆発によって空いた穴も再び平面に回収される。しかしもはやその平面は、自由だからこそ何も言うことのない無力な空間ではなく、様々なエゴの渦巻く、政治的な力の場所へと様変わりしているのだ。そうして私もようやく平面的なレヴュー空間へと入っていくことができるのだ。

そんな平面によって構成されるレヴュー空間への、私なりの介入方法こそ梶井基次郎の『檸檬』である。「つまりはこの重さ」なのである。紡錘形の単純色を、ガチャガチャしたレヴューの中に仕掛けるのだ。私たちは好き勝手に意見するのだが、あたかも匿名的に語っているはずの浮遊する言葉の奥には、生々しいほどの人間性という、重さを持ったマテリアルな「エゴ=檸檬」が存在している。その重さは私たちを自由過ぎる軽さから解放する。それは酷く漠然とした、どこへも向かうことのない無重力状態に対して引力を発揮する確かな質量なのである。檸檬の爆発は「みんな違ってみんないい」という掛け声を、「こうでないとダメだ」という叫びへと変貌させる。私はレヴューに隠されたエゴの重さを見つけては、密かに楽しんで立ち去るのである。もちろん、そうした爆発によって空いた穴も再び平面に回収される。しかしもはやその平面は、自由だからこそ何も言うことのない無力な空間ではなく、様々なエゴの渦巻く、政治的な力の場所へと様変わりしているのだ。そうして私もようやく平面的なレヴュー空間へと入っていくことができるのだ。

人間の愉楽は面白い。それはヘロインとボランティア活動のどちらにも同様に生じるからだ。5000億個以上のニューロンを持つ人間も302個しかもたない線虫も、愉楽に奉仕しているにすぎない。ある意味でそれは最も平等な基軸といえるかもしれない。