ジオラマのジレンマ

ここにくれば誰でも奇妙な街を一望することができる。1メートル20センチの正方形の木枠に囲まれたこの街は明らかなジレンマを抱えているが、そのジレンマなしには存在できない。

 

 赤い郵便ポストがある。少し古びたポストは、その街になくてはならない訳ではないが、その街が日常を提供するために佇んでいる。寂びれた赤色はコンクリートの地面から際立っている。メッセージの一時保留を担う懐かしき物質は、いずれなくなってゆくことを予感するような寂しさに包まれている。

 透明な電話ボックスの中では、手帳を片手に持ったサラリーマンが受話器を握りしめている。仕事先に電話をかけているのだろうか。その透明な監獄はガラス一枚隔てることで音を遮断し、ここにはいない誰かと交信する孤独な人の姿をうつしだす。

八百屋には野菜が並び、店先では元気そうな店主と主婦がいる。そこにある健全な取引には、必ず日常会話という不純物が介入するだろう。その会話は何ら世界の存亡とは関係のない話題の交換で、それは誰に記されるでもなく彼らの周辺を少しだけ色付けては消えてゆく。それは再現性のない一度きりの会話で、陳列された野菜のように常に新鮮である。

 14階建てのビルには、それぞれの階に均等なガラスの窓がはめ込まれている。どこを見てもそれは同じ形をしている。しかしそのスクリーンは全く異なる人生を歩んできたものたちが写り込む可能性に開かれている。そんな可能性を14×8×4と膨大に備えた塔は無機質な冷たさのうちに有機体の熱を包んでいるのだろうか。

交差点には赤信号で止まる自動車が4台ほど並んでいる。鉄の塊の驚くべきスピードを確保するために、道路と信号は生まれた。その速さは自然界の全てを置き去り、人のみの楽園を象徴する。人はいつから自らの力を超えるものを恐れなくなったのか。この街に残された野性、それは赤信号だ。動物的本能は火の赤を恐れている。

 

他にもこの街には生活に必要なものが全て揃っている。しかし、そこに動くものは一切存在しない。ポストはハガキを一枚も受け付けることなく、郵便という唯一の使命すら放棄している。電話ボックスの電話はどこへも繋がることなく、その中は永遠の静寂に包まれている。八百屋の野菜は腐ることなく、店主は何も売らず、主婦は何も買わない。ビルのガラスは、中からふっと人影を見せることなく壁だけをうつしている。赤信号が青に変わることもなく、自動車が動くこともなく、事故がおこる可能性もない。

全てが縮小された街は、はるか上空からの視線にさらされ、完全な静止を保っている。この街は人間の生活を模倣しているが、その重要な生活を失っている。この街の存在意義とは、見られることである。動かない街を鳥瞰する人間は、巨人になることができる。街を一望するという経験の内には、自らが街に住む小さな人間であることを忘れたいという欲望が隠されている。

しかし、このジオラマを見たものは思い思いの反応を示し、5分もせずに去っていく。彼らは巨人から、街の小人へと帰っていくのだ。しばらくジオラマを見て、様々な物語を創作した楽しんでいた一人の男も自らの街へ帰っていく。彼は想像する。僕たちも神さまのジオラマなのだろうか。まあそれでもいいか。神さまも時折、僕たちを観察して5分もせずに神の街へ帰っていくだろう。